「じいじ、夜うるさい」と言われて「じいじ、夜うるさい」と言われて

「ねえママ、今夜はいいだろう?」
「ダメよ」
「いや、我慢できない」

カウンター席が5席しかない「スナックいびき」の店内に、珍しくカラオケのイントロが響き渡った。

「もう、私がカラオケ嫌いなの知ってるでしょ。でもまあ、たっちゃんは歌上手だから、今日は特別に一曲だけ聞いてあげるわ」
ママがそう言うと、マイクを握った辰夫は「ありがとう、ママ」とうなずいた。

「たっちゃん」こと辰夫は現在65歳。勤務していた地方銀行を早期退職制度で60歳のときに退職して、今は出向先で週3日の勤務を続けている。趣味のフォークギターの練習と初孫との時間を楽しむのに忙しい毎日だ。

「スナックいびき」に辰夫が通うようになったのは地方銀行員時代にさかのぼる。激務に疲れ果て、積み重なる我慢やストレスが限界まで溜まるたびに店を訪れ、ママを相手にぽつりぽつりと愚痴をこぼしたものだった。当時、愚痴をこぼす前に辰夫は必ず何かを吐き出すかのように十八番を歌いたがった。今では悠々自適に過ごしているはずの辰夫がしつこく歌いたがる様子を見て、ママは胸騒ぎを覚えた。

最後の一節を歌い終えた辰夫に軽く拍手を送ると、席に戻ってきたタイミングを見計らって冷たいおしぼりを渡した。

「何か飲む?」
「じゃあ、焼酎のロックをもらおうかな」
「はい」

カウンターの中に入り、よく磨かれたロックグラスを取り出しながら、やっぱり何かあったのだとママは直感した。カラオケのあとの焼酎ロックのオーダー。これも当時の辰夫がママに愚痴をこぼす前のお決まりのパターンだった。

「ありがとう」

そう言いながら辰夫は一口だけ焼酎を口に含むと、カウンターテーブルに戻したグラスを両手に持ち、しばらくの間じっと見つめていた。
ママは黙って辰夫が自分から話し出すのを待っていると、意を決したように辰夫が顔をあげてボソリとつぶやいた。

「孫に嫌われたかもしれない」

孫の優太は娘夫婦の一人息子で、辰夫にとっての初孫だ。辰夫の家から車で20分ほどのマンションに住んでいて、頻繁に遊びに来てくれる。
普段は日が暮れる頃には帰ってしまうが、めずらしくお泊りしていくことになったらしく、久しぶりの孫のお泊りが楽しみだ、と先週同じ席でビールを飲んでいた辰夫は張り切っていたのに。

「たしかこの前店に来たとき、一緒に水族館に行くって言ってたわよね」
「ああ。その晩のお泊りのとき、はじめて一緒の部屋で寝ることになったんだ。そしたら翌朝『じいじ、寝てるときうるさい』って言われて」
「いびきがうるさかったってこと?」
「どうやらそうみたいなんだ」

辰夫はまた一口だけ焼酎を飲むと、グラスを置いて頭を抱えた。

「優太に嫌われたら、これから先、何を楽しみに生きていったらいいのか」
「なーに寝言みたいなこといってんのよ。まだ嫌われたって決まったわけじゃあるまいし
」 「そうかもしれないけど」
「うじうじ悩んじゃって、もう。それなら、次のお泊りに向けて今からいびき対策を始めるわよ」

ママは落ち込んでいる辰夫を鼓舞するように明るい調子で語りかけ、静かに立ち上がり店の外まで行くと、扉に「本日終了」の札をかけた。

「たっちゃんは、自分がいびきをかいている自覚がないみたいだから、まずは自分のいびきを知るところからね! さあ、ここからは居眠り禁止よ!」

「いくつあてはまった?」
「3つかな。もしいびきをかいてるなら、どれくらいひどいのか気になるなぁ」
「それなら、まずはアプリを試してみたら? たっちゃん、たしかスマートフォンだったわね。簡単に自分のいびきを確認できるアプリがあるのよ」

その言葉を聞いた辰夫は、眉をしかめた。

「優太の写真が見たいからスマホは持ってるけど、アプリかぁ」
「まったくもう! 本気でいびきに悩んでるんでしょ! それならアプリの一つや二つくらいつべこべ言わずにダウンロードしなさい!」

怒り心頭のママの勢いに思わず首をすくめた辰夫は、言われるがままおとなしく「いびきラボ いびき対策アプリ」をスマホにダウンロードした。

「まずは自分を知ること! そうと分かったらとっとと帰って自分のいびきを録音してみて」
「ありがとう、ママ! 優太のためにもやってみるよ」

次の日、スマホ片手に辰夫がまた店にやってきた。

「ママ、このアプリすごいね! このいびきじゃ優太も嫌がって当然だわ。今度ちょっと病院行ってみるよ」

十八番を歌いたがった昨夜のような暗く沈んだものとは違い、辰夫の顔色は真剣そのものだったが、同時にその表情にはどこか明るさも感じられた。

こうして今日もまた一人、いびきに悩む子羊が「スナックいびき」の名物ママによって救われたのだった。
それではみなさま、どうぞ良い夢を……。